LOGIN「特許ごときが、自分たちを守ってくれると思っているのか。ずいぶん楽観的だな」 NEXUS ONEの説明会場で、燎はまだ正臣を見て笑っていた。 「特許は使わない」 燎の言葉に、正臣が鼻で笑った。 「では、何も作れない。灯里には会社も、開発者も、試験データもない」 周囲で話していた人たちが、こちらを見る。 燎は正臣を見据えた。 「最初から作り直す」 「ちょっと。作り直すのは私よ。そんなの無理よ」 燎が私へ顔を向けた。 「なら、この二人に全部渡して諦めるか」 私は唇を噛んだ。 渡したくないに決まっている。二人には、何一つ。 でも、何年もかけて作ったものを、また最初から作り直すの? 奏汰が五歳の頃、腹痛の原因が分からず、食べたものも薬も睡眠も、私が一つずつ記録した。父と何度も設計をやり直した。 CARE-LINKは、そうやって作ったものだ。 簡単に言わないでよ。作るのは私なのに。 燎が一歩近づいた。 「同じものを取り返すだけで満足する女なら、俺はここまで賭けていない」 強い目が、まっすぐ私を見ていた。 「俺が欲しいのは、CARE-LINKじゃない。次を作る君だ」 「何を……」 勝手な男だ。 私より先に、私が次を作ると決めている。 この男は、私の身体だけでなく、研究者としての私まで欲しいと言っている。 私の全てを。 嬉しかった。 欲しがられていると思うと、身体が熱くなった。 今、燎にキスしたい。 あの夜みたいに、自分から。 それを知られたくなくて、燎から目をそらした。 正臣の会社にあるのは、私が作ったCARE-LINKだ。 莉乃は、その欠点を見つけた。 なら、私は何を作る? 九年前、顔も本名も知らない男と考えた、新製品の構想が浮かんだ。 毎日、患者や家族が入力しなくても、機器や病院から必要な情報が集まる仕組み。 あの時は、大きすぎる構想だと思った。 理論上は可能だ。簡単には作れない。 でも、SENOVAの仕組みを使えれば、すべてを一から作る必要はない。 何より、奏汰が腹痛で苦しむ前に、異変に気づけるかもしれない。 あの子のために、まだできることがある。 「やるわ」 私は燎を見た。 「あなたの会社の仕組みを使う」 「ああ、そ
「違う」 自分でも驚くほど低い声が出た。 「勝っても、あなたは私にはならない。私が負けても、私は私よ」 莉乃の笑みが消えた。 ノートの角が、握りしめた指の下で折れた。 「……ならない?」 声がかすれた。本当にショックを受けたようだった。 けれど、莉乃はすぐに持ち直すと、また私の真似をした。私と同じ角度で顎を上げた。 「では、何を争うんですか」 「患者に届くものを作れるかどうか。それだけよ」 NEXUS ONEは、海外の病院と研究機関が、日本で一社だけ開発相手を選ぶ。 父が生きていた頃から、いつか挑みたいと話していた選考だ。 名前を奪い合うための場所ではない。 「きれいごとだ」 正臣が切り捨てた。 「会社名もない。人もいない。製品もない。そんな状態で、選ばれると思っているのか」 「SENOVAは、彼女の会社と共同で出る」 燎が答えると、周囲の何人かがこちらを見た。 「設立前の会社と?」 参加企業の男が、隣の男と顔を見合わせる。 正臣は鼻で笑った。 「基盤だけあっても、中身は作れない」 「CARE-LINKを設計したのは彼女だ。次も作れる」 燎は当然のように言った。 私なら、もう一度作れる。 燎は、そんなふうに思ってくれていたんだ。 嬉しかった。 正臣が莉乃の肩へ手を置いた。 「こちらには会社も、開発陣も、試験データもある。君を開発から外したあとも、準備は進めてきた。今さら勝てるとでも?」 正臣は莉乃へ、励ますように微笑んだ。 陰のある目元がやわらぐと、端正な顔は昔の優しい夫そのものに見えた。 研究の進捗を話すたび、私に向けていた笑顔だった。 もう、あの笑顔を取り戻したいわけではない。 それでも、私の仕事を奪った莉乃へ向けられると腹が立った。 隣で、燎が私をちらりと見た。 私は気づかないふりをした。 「何より、CARE-LINKの特許はこちらにある。それに、灯里も準備してきた。そうだろう?」 「ええ、私、勉強しました」 莉乃がノートから手を離し、私を見た。 「それで、欠点を見つけました」 「欠点?」 「患者本人が入れた記録も、家族が代わりに入れた記録も、今のCARE-LINKは同じ一件として並べますよね」 すぐには答えられなかった。
「出るに決まってるわ」 燎が満足そうに笑った。 「そう言うと思った。だが、久条も出る」 代表になった柊吾が出てくるだけなら、燎はわざわざこんな言い方をしない。 「誰が来るの?」 「相良莉乃が、CARE-LINKを持ってくる」 その名前を聞いた瞬間、腹が立った。 私が本物だ。 私の仕事も、父の会社も、あの女に渡さない。 偽物に、負けるわけにはいかなかった。 * * * それから一週間、私は毎日あの最上階へ通った。 ほとんど眠れないまま、燎が集めた技術者や弁理士と、CARE-LINKの設計を残して久条の特許を避ける方法を、朝から夜中まで探し続けた。 案はいくつも出た。 けれど、検証も、新しい特許を出願できる段階まで仕組みを固めることも、今日までには間に合わなかった。 翌週の午後、私は燎と並んで、都内の国際医療センターにあるNEXUS ONE選考説明会へ入った。 会場の前には、国内の医療企業や研究機関の関係者が集まっていた。 足を止めた私の腰へ、燎の手が回る。 「止まるな」 薄いスーツの生地越しに、指の力と熱が伝わった。 「怖がってない」 「知っている。腹が立っている顔だ」 燎が顔を寄せる。いつものコロンが、ふわりと香った。 「その顔を見ていると、今すぐ連れ帰って、俺しか考えられなくなるまで抱きたくなる」 あの夜の唇を思い出し、脚の間が甘く疼いた。 一週間も、あの続きをしていない。 悔しくて睨むと、燎は楽しそうに口元を上げた。 腰を抱かれたまま扉をくぐる。 正面に、正臣と莉乃がいた。 莉乃は白いシャツに黒いスーツを着ている。髪も短くまとめ、使い込まれたノートを胸に抱いていた。 一週間前より、また私に似ていた。 目元が少し腫れている。寝不足にも見える程度だった。 けれど、二重の幅と目尻の角度が、前より私に近い。 何か、変わった? 私の視線に気づくと、莉乃は私と同じ角度で顎を上げた。 正臣の視線が、私の腰にある燎の手で止まった。 陰のある目元が、すっと冷える。 「その手を離せ」 近くにいた男たちが会話を止めた。 燎は手を離さない。 「誰に命令している」 「僕の妻に触るな」 「正臣さまの妻は、私です」 莉乃がすぐに言った。 そ
結局、昨夜は燎の部屋へ行かなかった。 ベッドに入っても、なかなか眠れなかった。 目を閉じると、燎に腰を引き寄せられた感触と、唇の熱を思い出す。 扉を開ければ、燎はきっと気づく。話がしたいのではなく、もう一度触れてほしくて来たのだと。 それが悔しくて、自分の部屋から出られなかった。 *** 「行くぞ」 翌朝八時、燎は本邸の玄関で私を待っていた。 濃紺のネクタイを締めている。昨夜、私がつかんで引いたものとは違う。 「何を見ている」 「ネクタイ。昨日と違うから」 「君が皺にした」 燎の目が、私の指へ落ちた。 「また引きたいのか」 「引きたくない」 すぐに答えたのに、燎は悪戯っぽく笑った。 私が嘘をついたと分かっている顔だった。 「どこへ?」 「君の会社だ」 昨夜の発表を思い出した。 会社はもらわない。私が作る。そう言ったばかりだ。 「まだ会社なんてないけど」 「だから、作りに行く」 燎は当然のように言い、先に扉を出た。 車が着いたのは、SENOVA本社の向かいにある高層ビルだった。 最上階へ上がると、広いフロアに新しい机が並んでいた。窓の向こうには、病院や研究施設が集まる街が見える。 真鍋が私たちを待っていた。 「ここは、来週の説明会から三十日後の選考まで、桐谷さんの会社へ貸し出します。今日から使えます。開発環境も、今夜までに使えるようにします」 「貸し出す?」 燎を見た。 「投資じゃないの?」 「投資には条件がある」 やっぱり、この男はただ甘くはない。 「どんな条件?」 「NEXUS ONEを取れ」 息を呑んだ。 まだ会社すらない私に、日本で一社しか選ばれない枠を取れと言うの? その名前は知っていた。 海外の病院と研究機関が、日本で一社だけ開発相手を選ぶ。 選ばれれば、複数の病院で試験運用ができる。 父が生きていた頃から、いつか挑みたいと話していた選考だ。 けれど、実績のない会社が簡単に通る場所ではない。 「本気で言っているの?」 「冗談で会社は動かさない」 「人もいない。製品だってこれからよ」 「来週の説明会から、三十日ある」 「三十日しかないじゃない」 燎は少しも動じなかった。 「SENOVAは、君の会社と共同で出る」
「俺が君を奪えば、君の人生は変わる」 日付が変わる少し前、燎の私室で、私は唇に触れたままの親指を見た。 指の腹は少し硬く、触れられた場所だけが熱い。 顔を上げると、すぐ近くで目が合った。 まっすぐ通った鼻筋も、薄い唇も、嫌になるくらい好みだった。言われていることより、あの唇が気になってしまう。 でも、いちばん目を引くのは、その強い目だった。 私を見て、欲しいとためらわずに言う。手に入るかどうかを疑っている顔ではない。 この人なら、何度つまずいても立ち上がりそうだ。傷ついても、腹を立てても、また欲しいものへ手を伸ばす。 その強さが怖い。なのに、私を欲しがるこの目を、もっと近くで見ていたかった。 「一夜だけ俺のものになって、朝になれば元へ戻れると思うな」 親指が、濡れた唇をゆっくり拭う。 「君はまだ、その覚悟ができていない」 なんて傲慢な男だろう。 私の人生なのに、私より先に覚悟の有無を決めている。 腹が立つ。 けれど、間違っているとも言えなかった。 私はまだ正臣の妻だ。 離婚は成立していない。奏汰を連れて屋敷を出たばかりで、親権だってこれからどうなるかわからない。 今夜、燎に抱かれたことを正臣が知れば、必ず私から奏汰を奪うために使う。 今すぐ、抱いてと言いたかった。 身体はまだ、燎の手が戻ってくるのを待っている。ドレスの留め金に触れられた感覚を思い出すだけで、奥が疼いた。 でも、駄目だ。 頭では分かっている。 それでも、燎が欲しかった。 私の迷いを見抜かれたことより、欲しいのに手を伸ばせない自分の方が悔しい。 私は燎の手を唇から外した。 「嫌な男ね」 「知ってる」 燎が口元だけで笑った。 その余裕まで腹が立つ。 私は燎のネクタイをつかみ、強く引いた。 唇を重ねると、燎の笑みが消えた。 次の瞬間、後頭部を大きな手でつかまれる。 傾けられた顔に、燎の舌が深く入り込んだ。 「ん……っ」 濡れた唇が、かすかな音を立てる。 息を奪われるほど深く口づけられても、私はネクタイを離さなかった。 燎の舌を追うと、抱かれなかった身体の奥が、また熱く疼く。 このまま離れたくない。 そう思った自分ごと振り切るように、先に唇を離した。 燎の指
「連れていくよ」 正臣は、莉乃の髪をゆっくり撫でた。 「君がCARE-LINKを完成させるんだ。僕の隣で」 「でも、お義母さまは、正臣さまを会社から……」 正臣の指が止まった。 「母が決めることじゃない」 正臣は、代表を下ろされても、自分の影響まで消えるとは思っていないらしい。 「母が何を言っても、僕が連れていく。あの会社を大きくしたのは僕だ」 「私を、灯里として連れていってくださるんですか」 正臣が眉を寄せた。 「何を言っているんだ。君は灯里だろう」 莉乃は微笑み、正臣の胸へ頬を戻した。 明日からは、会社でも灯里になれる。 * * * あのあと、燎は答えなかった。 柊吾が記者たちに囲まれて離れたあとも、燎の腕は私の腰に回ったままだった。 「燎」 呼ぶと、ようやく指の力が少し緩んだ。 けれど、腕は解かれない。 さっき柊吾へ向けた冷たい声が、まだ耳に残っている。 怖いはずなのに、離してほしいとは思わなかった。 私に触れるなと告げた燎の腕の中に、もう少しいたかった。 「あの人は、誰なの?」 「SENOVAを一緒に始めた男だ」 燎は柊吾が消えた扉を見ていた。 「俺が追い出した」 やはり、ただの知人ではなかった。 燎が誰かの名前を口にするだけで、あれほど声を冷たくする。 二人の間で壊れたものは、会社だけではない気がした。 「どうして?」 「守るべきものを、数字に変えたからだ」 それ以上、燎は言わなかった。 九年前も間に合わなかった。 柊吾の言葉が耳に残っている。 燎は九年前に、誰を守れなかったのだろう。 知りたい。 仕事のためではない。 燎のことだから、知りたかった。 「九年前に、何があったの?」 燎の視線が、私へ戻った。 「今話せば、あいつに言わされることになる。それが気に入らない」 今は話さない。でも、隠し続けるとは言わなかった。 その違いを、私は勝手に信じたくなった。 「帰るぞ」 「本邸へ?」 「ああ。今夜、君を一人にする気はない」 また勝手に決める。 腹を立てるべきなのに、「一人で帰す気はない」という言葉ばかりが残った。 けれど、パーティーで燎の腕を取ったのは私だ。 今夜も隣にいたいと思っているのも、私だっ